昭和38年、父であり創業者である“原田昭廣”が南信塗料(株)を創業した5年後、私は長野県伊那市に生まれました。
鶏口牛後(ケイコウギュウゴ)―。 中国の故事にもあるように、小さくてもトップを取りたい一心で自主独立を決意した父とは、物心ついてから小学3年生頃まで何かを「一緒にやった」という記憶はありません。
“ヤジマのおいちゃん”こと我が社の社員第一号、住み込み勤務の矢島氏に可愛がってもらったこと、社員さんが徐々に増え、にぎやかになってきた会社の中で、大人のキャッチボールにまぜてもらったことが子供心に楽しかった思い出としてあるくらいでしょうか。
自宅の前の田んぼに初めて社屋が建ち、その3年後には新しい自社ビルと南信塗料は順調に発展していきました。
そんな中私は、両親から「お前は跡取りだ」と一度も言われることのないまま、自由に外の世界に憧れるようになりました。
「東京で一人暮らしがしたい。」「海外で生活してみたい。
」大学進学も上場企業への就職も、「家業を継ぐ」ことを全く意識することなく私が決め、両親にはただただ応援をもらいながら、まさに自由な人生を謳歌していました。
「父の仕事はただのペンキ屋ではないようだ―。」
少年時代に感じていた父の会社へのイメージは、私が30歳になってもおぼろげなままでした。
スペアのいる人生、いない人生
世の中がアナログからデジタルへと移行が加速しはじめた1990年代前半、キャノンで多忙なサラリーマン生活を送っていた29歳のある日。
北米現地法人に赴任中の先輩から、「東京から北米へスタッフの人事異動をすることになっている。君を呼びたいと思うが、家は商売家だと言ってたな?大丈夫か?」と意志の確認をされたのです。私にとっては念願の「海外で暮らす」チャンス到来でした。もちろん、2つ返事でYES!です(笑)
でも、この時の異動に声はかかりませんでしたね。時を同じくして、会社経営においてある問題を抱えていた父を心配した母から「あなたが帰ってきてくれたら、お父さんを助けられるのに・・・。」という話を聞かされました。
東京でプロジェクト成功に向けて無我夢中で働きながらも、大組織にはいくらでも自分の代わりがいるけれど、父の息子は私一人という、考えてみれば、「生まれたときから変わらない事実」をこの時初めて考えるようになりました。
「経営者のあととり」「スペアのいる人生といない人生」私の人生において大きな“気づき”となった2つの出来事でした。
30歳の決心
30歳という節目の年にプロジェクトは無事立ち上がり、私は「家業を継ぐ」ことに思いをめぐらすことが多くなりました。考えれば考えるほど、「スペアのいない世界で苦労する人生を選ぶのも悪くない。ここらで少し長く伸びてきた鼻をポキッと折られるのもいいじゃないか、人生を選択できる喜びをかみしめよう。」という強い思いにかられました。
そして相談した上司からの一言が私の覚悟と決意を確実なものにしました。
「何を言ってるんだ、次はアメリカ赴任だぞ!」
それまで、一つのことを除いて本当に納得いくサラリーマン生活でした。「海外で暮らしたい」の夢こそ叶いませんでしたが、この時、そのパスポートをもらったのです。「サラリーマンとして願った全てのものを私は手に入れたのだ」と思うと、心の全ての霧が晴れました。「もう一つの人生に挑戦するのも悪くない。」上司からもらった言葉は、私の心残りを一掃する忘れられない言葉、エールとなりました。
伊那へ帰省し、「入社をお許しいただきたい。」と嘆願した私に父は「人の3倍働く覚悟があるなら、入れてやってもいいよ。」「実務がわからないお前がみんなに認めてもらうには、みんなが嫌がって後回しにする仕事を自分の担当にすることだ。」と言い放ちました。
この瞬間から、まさしくスペアのいない人生がスタートしたのです。そして平成6年、私は副社長としてNCC株式会社に入社しました。自ら人生を選択できた幸せをかみしめながら。
素晴らしい人生
入社して最初の7年間は退勤後に父の自宅を訪ね、仕事の報告とコミュニケーションを2~3時間とるのが日課でした。だから帰宅は毎日深夜。
「今日はこういう判断をした。」「現場からこういう声があるけれど。」
今思うと本当によく付き合ってくれたなと思います。
副社長時代のある日、「お前はこの会社に入って幸せか?」と父に言われたことがあります。
私に「人の3倍働くなら・・・」と言った父ですが、「海外に行かせてやりたかった。それはきっといい経験になっただろう。」という想いを言葉にできなかった父の心を感じました。
あの時答えた気持ちに今も変わりはありません。
「はい、最高に素晴らしい人生です。」
NCCが提供するもの
NCCがご提案するのは「塗料」自体ではなく、お客様ごとに機能性、価値を付与したコーティングビジネスです。単体材料としての塗料は、言わば半製品。目的に応じて最適に使用するための仕様や工程、システム、情報をプラスすることによって完成します。経験によって蓄積されたNCCの情報バリューは何にも勝る財産です。
日本の大手ベアリング会社M株式会社様の技術顧問の方から「私はNCCのファンです。他にこんな商社はありませんよ。あなたたちは何でも自分たちでするでしょ。」というお言葉をいただいたことがあります。これは当社にとって最高の褒め言葉、何よりのモチベーションです。
また、「NCCは何(N)でもか(C)んでもカンパニー(C)だろ!!」と言われたことも(笑)
必要な物を、必要な時に、必要な状態で。
“お客様時間”で動いてくれるスタッフ達があってこその「コーティングビジネス」です。
メーカー様がベストの「物」をつくる。そして私たち商社がそこに「価値」を付与して「お届けする」。商品の数、お客様の数だけのお役立ちストーリーを説明書に代えて。
NCCはお客様から「コンサルタントでしょ?」と言われる商社でありたいのです。
伊那から世界へ
私は伊那の朝の風景、特に谷部が朝霧に包まれた風景が大好きです。視界良好といかない風景に清々しさを感じるのは、伊那谷が水のベールに包まれ、静寂さの中に、その日新たに生まれ来るような神聖なイメージを醸しているからなのだと思っています。
子供時代には思いもしなかった感覚なのですが、そこに生まれ、或いは集まり散じていく人を、何百年、何千年も変わらず包み続けた郷土が今日を生まれ来る。
思わず手を合わせたくなるような本当に不思議な感覚。
伊那谷は山と川、谷の町の集まり。おかげで水不足の心配がありません。諏訪湖から流れる天竜川が精密・電子産業を支える潤沢な水を与え、お陰で雇用も比較的安定しています。
古くから引き継がれてきた田畑を守り続けながら、この土地で夢をつかもうとする働き手が多いのもこの土地の特徴でしょう。伊那から飛び出したくて仕方なかった私ですが、地に根を張る生き方は、グローバルな世界を生き抜く素養であるとも感じています。グローバルに考えてローカルに生きると言うところでしょうか。
地域商社の仕事は、文字通り地場産業と言えるでしょう。化学品業界は歴史の古い業界で、昭和33年創立のNCCが、未だ長野県内では最後発の会社です。そんなオールドエコノミーだからこそニュースタイルが求められる。半製品である化学工業製品は、その使い手であるお客様の数だけお役立ちのチャンスがあります。言い換えれば、この地で夢をつかもうとするお客様の数だけ私たちの夢もまた広がる。
伊那から世界へ。
この思いは世界に通用するサポートレベルを目指す私たちのお客様への誓いでもあります。